バルクアップ専門サイト「筋肉日誌~別館~」にようこそ!
筋肉で体を大きく!
マッチョになりたい方へ、マッチョになるための情報を提供する
そんな「ボディビルのブログ」でございます。
…が、ここで追記です。
~2022年1月追記~ このブログについて
数多くある他サイト様との差別化を図るため、今後このブログは「僕はこうしてマッチョになった」というブログ名に変更予定です。
ネット上では筋肉情報過多、内容もほぼほぼ同じ、そのような内容を僕なりの言葉でブログに書いたとしても、結局は一緒です。
そこで、「僕は実際にこうやってここまで筋肉をつけた」という事実をありのままに紹介していこうと思います。
おそらくそのほうが、これから一人でもマッチョを目指す方に、少しでもお役に立つのであろう、と思いました。
そもそも、他サイト様と同じような内容をまとめただけでは、はっきり言ってそちらを見ていただいたほうが僕の文章より分かりやすいとも思いますし‥。
僕よりもマッチョな方がたくさんいるのは事実です。
しかし、とりあえず「絞れば地方のボディビル大会では優勝、表彰台に乗ることができる」くらいにはマッチョになれたのもまた事実。
広いマッチョ界隈では決して目立たない僕ですが、あくまで一般的には十分すぎるほど筋肉をつけることができたほうなのかな、と感じてはいます。
20歳の頃。もともと64キロの痩せ型だったぼくでした。
44歳。コツコツと楽しみながらジムで筋トレをしていったら、現在90キロのマッチョになることができました。
人生で一度も腹が出たことはありません。
筋肉をつけるにはいろんな方法やいろんな説がありふれています。
どれも正解なのでしょうが、語ればキリがありません。
僕は僕で、実際に色々試し、ここまで体を変えることができました。
僕は今年で45歳になります。
今以上に体を向上させる時間はまだまだありますが、20代の方たちと比べれば、もちろん時間は少ないです。
僕はこれからも上を目指していきますが、同時に「これからマッチョを目指す方にとって、僕が今までやってきたことが微力ながらお力になれれば」と思います。
そんなブログを、2022年、1年かけてゆっくり作り直していきたいと思います。
僕のブログを見れば僕くらいまでにはなれるであろう、そんな「実際に行ってきたこと」をまとめていこうと思います。
ご挨拶!
20代前半から大好きなウエイトトレーニングを継続しております。
現在二児のパパです。
かつてはボディビルの大会にも出場していまして、2010年に宮城県大会で優勝したこともあります。
その後、震災と結婚と子供の誕生を経て、10年ほどコンテストからは遠ざかっておりました。
子供も小さく夜泣きも多く、今まで通りのトレーニング生活は離れざるを得なくなってしまいました。
あっという間に時は流れ2020年現在。
赤ちゃんだった子供たちも小学校、幼稚園に通うようになりました。
仕事がある日、土日など子供たちが園や学校が休みの日は、明け方にジムに行きトレーニングをしています。
管理人さいとうのボディビルとの出会いとは?
以降、僕の筋トレの歴史の話になります。
興味のある方がいないと思いますので、ブラウザの戻るクリックでオーケーです。
中学生時代。シュワちゃん、ブルースリー、千代の富士に憧れ、筋トレの始まり
僕が筋肉に目覚めたのははるか昔の少年時代。
小学生の頃、千代の富士、シュワルツェネッガー、ブルースリー、ドラゴンボール、きん肉マンに影響されてか、中学の頃から家で腕立てや腹筋を熱心にやっていました。
これが僕の筋トレの原点です。
腹筋のやりすぎで仙骨部、つまりお尻の上の方、そこの皮膚がいつも剥がれ、出血してパジャマをよく汚していました。
単にフォームが悪かったんですね。
その頃、スーパーファミコンのストリートファイターⅡが発売になりました。僕がその時から約30年以上にわたり、ザンギエフを持ちキャラにしたのは言うまでもありません。
その後も、カプコンの格ゲーにもはまり、使うキャラはコマ投げとボディプレスのあるキャラを主に使っていました。
その後も通販でブルワーカーを買ってみたり、ゴミ置場の頑丈そうなバネを持ち帰って家の柱に打ち込んで紐をつけて引っ張ってみたり、「ターザン」の記事を参考にタウンページ持ってシュラッグをしたり・・・
全然負荷足りないですよね、まあそんなことばかりやっていました。体型は痩せ型でした。
高校生時代、吹奏楽部=筋トレ部
高校時代、吹奏楽部でトロンボーンをやっていたんですが、帰りには必ず「プロテイン1グラム配合」と書かれた、自販機で売っていた瓶入りの黄色いドリンクを買って帰るのを日課にしていました。
プロテイン1グラムですよ1グラム。
当時はこれを飲めばマッチョに近づけると本気で思って毎日欠かさず買ってました。
しかも普通のジュースより数十円高かったと思います。
ちなみに吹奏楽部の練習内容は、楽器そっちのけで机を二つ並べてディップスをいつもやってました。
屋上でスクワットをやったり、逆立ちでどこまで行けるか練習したり。
あとは学校の近くの本屋さんで当時の月ボを立ち読みして、初めて見るビルダーの姿に物凄い衝撃を受けたのを鮮明に覚えています。
後日「なんかあいつ変な本読んでたと」噂されたり、とにかく昔から筋肉に対する憧れがかなり強かったです。
看護学生時代、ささみジュースにプロテイン
准看の学校を卒業したあと、入るべくして念願のジムに入会。
長町にあったマッスルジムに半年ほどお世話になり、看護学校受験のために退会。
初めて見る生のボディビルダーに驚愕したものです。
「僕もこんな風に変身できるのか?」物凄い興奮と感動を覚えたのを覚えています。
ちなみにこの頃の僕の体型は身長173センチ体重64キロ。
上腕サイズは曲げて27センチ、大腿は52センチ。
腕相撲は高校の頃は普通の人にはぜんぜん負けない程度でしたが、なんと貧弱な。
で、ベンチプレス30キロから開始。
60キロはすぐ挙がるようになりました。デッドリフトは80キロでヒーヒー言っていました。
スクワットはせず、レッグプレスをよくやっていました。
看護学校入学後、オープン時間の都合により地元のジム(WATARI GYM)に仕事が休みの日中に通い、夜は看護学校に通う生活をしていました。
何となく筋肉にいいような気がしたので、わざわざオートミールをトレーニング後に食べてみたりしていました。
ジムでウィダーのマッスルフィットプロテインを買うのがマイブームでもあり、基本的には赤いラベルのコンセントレート、贅沢する時は黒いラベルのアイソレートをチョイス。
当時のプロテインは溶けにくかったですね。
アイソレートが登場したのも確かこの頃だったと思います。
缶に入っていたグルタミンペプチドもとっていました。
学生生活としては、実習中にトイレに隠れてプロテインを飲んだり、家ではろくに勉強もしないでマッスル北村さんの世紀末バルクアップ1999のビデオを見て、北村さんのマネをして生解凍ささみジュース(ではなく、僕は胸肉ジュースでした)を飲んだりしてました。
ちなみにドリンクの中にはバニラエッセンスではなく、しょうゆを入れてました。
そして数日間お腹壊して具合悪くなったり、まあおかしなことばかりやってました。
また、たんぱく質はとるほど筋肉の発達によい、と思い込んでいたため、休み時間には非常階段に座り、タッパーに入れた茹でた胸肉1枚を食べて、またおなかを壊したり(たった一枚で)・・・。
今だったらおにぎりをチョイスしています。
カーボをとれ!
そんな生活を2年ほど送り、体重は10キロ増の75キロくらいになり、ベンチプレス100キロ一回、デッドリフト170キロ一回、スクワットはスミスなので覚えてませんが、とりあえずそのくらいにはなり、見た目もそこそこ筋肉質になりました。
しかし看護学校3年目は実習がメインになったため週末以外はほとんどジムには行けず、ほぼ普通体型に戻ってしまいました。
なお、実習の態度も最悪(居眠り、人の話を聞かない)で、メンバーの方々には相当ご迷惑をかけ、最後のあたりではシカトされていました。
看護学校卒業後、本格的にジムトレーニング開始!
卒業後はマッスルジムに再度入会。ガンガントレーニングをし、またもとの体型に戻り、パワーもそこそこつきました。
この頃サプリメントにはまり、色々摂っていました。ボディビル雑誌のサプリ広告を穴が開くまで見ていたものです。
しかし、あれこれ試しても効果らしきものは無かったです。
当時、話題になっていたステロイドを超えるナチュラル物質、「メソキシイソフラボン」含有のシントラックス社の「プロキシロン」「メソキシロン」。
昆虫のホルモン「イソイノコステロン」含有の「イントラボル」だったっけ?を摂ったのもこの頃です。
何の効果も無く、あっという間にすっかり市場から消え失せたことすらもはや誰の記憶にもないかもしれません。
プロテインにも「メソキシープロ」とかありました。
で、なんだかんだでトレーニングは大好きで、まじめにこつこつ行い、パワーは随分つきました。
仕事の後のトレーニングタイムが何よりも至高でした。
本当に楽しかったなあ。
そしてジムの先輩がボディビル大会に出場するとあって、人生初観戦。
ものすごい衝撃を受け、ますますトレーニングにのめりこんでいくことになりました。
しかし重量伸びても筋肉は一向につかない。腕はいつまでも細いままでした。
そして関節が痛い。何故だ?
その後、ゴールドジムがとうとう東北初上陸!浮気心よろしく、ゴールドジム仙台へ移籍しました。
青春のゴールドジム仙台時代
25歳くらいでしょうか。
この頃、扱う重量はそこそことはいえ、順調に伸びていました。
さらに数年後にはベンチはマックス140キロ、スクワット180キロ、デッドリフト220キロ。
ハーフデッド300キロ。
バーベルショルダープレス60キロでセットを組み、バーベルカールも50キロ以上で10回とか普通にやっていました。
ワンハンドローも60キロのダンベルでもぜんぜん足りない感じでした。
もちろん、もっと挙げる人はたくさんいるのですが、バーベルカール20キロも重かった昔の自分と比べたら、ずいぶん重量も伸びていました。
しかし、脚の太さと背中の厚み以外思ったように筋肉がつかなかったです。
体重は90キロくらいになりましたが、太っただけといいますか。
腕と肩と胸が細い「箱みたいな体型」になっていました。
そしてまた怪我こそしませんでしたが、関節が少し痛い日々。肩の後ろなんていつも痛かったです。
僕より筋肉のある人を見ると、もっともっと軽い重量でやっている。
どういうことだ?
しばらく悩みました。
当時はウエイトを振り回すことしかできず、対象の筋肉を意識することができなかったのです。
自分にとって筋肉を意識できる種目を選ぶことが頭にありませんでした。
ボディビルのホームページ「MASSIVE STATION」を開設!
今では当たり前であるインターネットが世に普及し始めたその頃、ホームページビルダーというソフトを使って「MASSIVE STATION」というボディビルのホームページを立ち上げました。
ジム仲間の方々のご協力をいただき、結構なアクセスを集めることができました。
ブログも開設し、両方ほぼ毎日更新していました。
この頃が僕のボディビル活動第一次ピークで、まさに部活動のような感じで、本当に楽しい日々を送らせて頂きました。
2005年にはずっと気にしていた漏斗胸の手術(ナス法)を松山で受けて来ました。今でも胸骨の下には33センチのチタンのバーが埋まっています。綺麗に治り、違和感も何もありません。
その後、インターネットが普及していくにつれジム内での撮影も不可になりました。写真の無い筋トレサイトでは存続が難しくなり、5年ほどでそのサイトは閉鎖することになりました。
ボディビル大会初参戦、予選落ちは数え切れず
26歳。
周囲の影響を受けて2004年、宮城県ボディビルの大会に初参戦。
初めてバーベルを握った日のことを思い返し、俄然やる気に満ち溢れていました。
しかし、舐めるつもりは全くなかったのですが、完全に舐めてました。
絞れればいけるだろう、もともと僕は体脂肪が低い体質だったので、たぶん絞れるだろう、絞ったらいい線行くだろう、と内心高をくくっていたと思います。
いざやってみると減量がうまく進まず、絞ってみたらよりいっそうしょぼかったという現実に悩みました。
なんというか、「アメンボ」みたくなってました。
しかも結局ちゃんと絞れなかったです。
そして退会当日「皆着痩せしていた」ことに始めて気がつきました。
脱ぎ始めた瞬間、周りの選手との歴然とした差にショックを受けました。
なんだこの絞りは!?!?!?
で、ボーダーで何度か比較に呼ばれはしたものの、予選落ちでした。
しかもその日、ビルパンを楽屋に忘れてくる始末。
その後も何年も何回も、出る大会出る大会ほとんど予選落ち、いつも午後は客席でした。
舞台裏で何回CD投げて返されたかわからないくらいです。
ステージ後列に立って何もしないまま終了なんてザラです。交通費やばいです。
それから筋肉は少しずつついてきましたが、やっぱり予選落ちは続きます。
一番の問題は「仕上がり」、減量です。
普通にやっても落ちないので、最終的におかしなやり方に走り、結局ダメという黄金パターンです。
しかし筋トレは大大大好きだったので、辞めてしまうことはまったく考えませんでした。
宮城県ボディビル大会優勝
33歳。
交通の時間の都合でマッスルジムに戻った僕は、2010年に同じジムの先輩に手取り足取り全部教えてもらい、人生で初めてバッチリ仕上がって、予選落ち三昧から全てをすっ飛ばして突然優勝することができました。
感謝しかありません。
実はその年、ジムでの出会いを求めて長町のコナミスポーツにも通っていました。
トレーニング強度は今までのトレーニング暦で一番低く、コナミでマシンを30分くらいいじっておしゃべりして終了、たまにマッスルジムでまあまあまじめにフリーウエイト、というものでした。
出会いの成果としては、ごついおじさんと仲良くなったくらいでした(笑)。
その後職場が変わり、通う時間などの都合によりコナミを辞め、さらに自宅から近い名取フィットネスジムに移籍しました。
2011年、震災
宮城で優勝した翌年の2011年。
その年のボディビル大会出場予定は日本クラス別75キロ級でした。
国内最高峰の階級別大会、玉砕覚悟の大チャレンジでした。
順位は振るわなくとも恥はかけまいと思っていました。
3月11日、東日本大震災。
海沿いにあった僕の家も津波の直撃を受けて全壊しました。
近所の方も大勢亡くなり、見渡す限り爆弾でも落とされたのかと思うほどの有様に、現実のものとは思えませんでした。
トレーニングどころではなく、食事も不十分のまま、時間だけが過ぎていきました。
春が過ぎ、インフラの回復したところへの引越しも終え、新環境にてようやくジムに通えるようになりました。
すっかり衰えた体を戻すべく、トレーニング再開です。
ここまで筋肉がなくなったのは本当に久しぶり?といいますか、太い胴体に細い手足がくっついているような、オイルマンのような、なんとも酷い有様になっていました。
ここまで落ちていたとはと、逆にびっくりです。
自分の体とは思えなかった・・・。
けんすい3回くらいしか出来ませんでした。
当時は無理ですが、タンパク質がもっととれていたらもう少しましだったと思います。
けど、落ちることは落ちましたが、ある一定以上は落ちないといいますか、ずっと落ち続けるという感じでは無かったですね。
しかし、トレーニングの再開と食事の充実と、やることをやっていればすぐに筋肉は戻りました。
素晴らしきマッスルメモリーです。
あそこまで落ちても割とすぐ戻るんだなと感心しました。
いざ、最後のボディビル大会!
しかし、日本クラス別まで時間がありません。
急がないと!
この年のトレーニングは本当に頑張りました。
今までのトレーニング人生の中で一番頑張ったと言えます。
しかし、頑張れば頑張るほど、追い込めば追い込むほど、重量は横ばい、または落ち、張りは失われ、体重だけ減っていくけど脂肪はほとんど落ちずという、仕上がりに関しては初めて大会に出るために減量した時をもっと酷くしたような状態になりました。
今思うとトレーニングのやりすぎ(自分にとって追い込みすぎ)と、回復不十分(回復できないくらいやりすぎ)でテストステロンが下がり、コルチゾールもバンバン出ていたのだと思います。
そして、そのまんま日本クラス別へ。
検量時、審査員の宮城県の理事の方に「なんだ?落としすぎたか?」と心配されました。
地方の予選も通るか怪しい仕上がりでステージに立ち、自分の中では恥だけかいて終了でした。
もっとも、完璧な仕上がりでも最下位でしょうけど、悔いが残ります。
2020年1月現在、僕の名前で画像検索をすると、よりによって日本クラス別の画像がトップに出てきますが、本当に勘弁して欲しいです・・・。
そのあと、「そういえばこんなこともあったな」と、全身を高頻度低強度で回すトレーニングを試したところ、体重は増え、仕上がりもすすみ、結局仕上がりは悪かったのですがクラス別の時とは全然別人にまで回復し、同年の東北大会ではなんとか9位になることができました。
これが独身時代最後のコンテストになりました。
約10年、コンテストに携わった生活をしていたことになります。楽しかった!
結婚、そして子供の誕生
東北大会のあと、同僚の紹介で今の奥様と知り合いました。
「12歳年下!?22歳だって⁈」と最初はびっくりしましたが、なぜだか意気投合し、もはやコンテストに燃え尽きた感もあった僕は、そっちのほうにうつつを抜かし残りの大会をキャンセルし、そのまま翌春にはスピード結婚。
そして子供も誕生し、こんな僕もパパになりました。
そして気がつけば、あっという間に約10年間ブランクができていました。
そして若かった僕も、いつの間にか僕も42歳のおじさんに。
お店のおばちゃんからは「お兄さん」から「旦那さん」と呼ばれるように。
ああ、ボディビルを始めてコンテストに燃えていた10年と同じ年月が経ったのだな。
時は加速しておる!
・・と感じずにはいられません。
結婚後の筋トレ事情
結婚後も筋トレは一応継続してきましたが、子供が小さいと、たった1時間の筋トレとてコンスタントにとはいきませんでした。
独身時代は全てが自分のペースで生活できましたが当然そういうわけにもいかず、次第に昔のようなトレーニングに対する熱意もなくなり、モチベーションは低め安定に。
しかし子供が可愛いので万事オーケー!
充実の日々を過ごしていました。
そういうわけで、ある程度の気合が必要な脚トレとデッドリフトから離れがちになった僕の体は、足腰の弱体化が躊躇になり、これではいかんと鍛え直すとすぐに膝と腰が痛くなり、戻すことすらままならない年月を過ごしました。
コンテストに未練を残し、血迷ってフィジークに出場
2015年、トレーニングがコンスタントにできないストレスからか、何を血迷ったのかフィジークの大会に突然一度だけ出たことがあります。
減量期間は1か月半です。
今思えばいったい何をやっていたんだと思いますが、僕もトレーニング界隈から離れたくなく、とにかく一日一時間でいいからコンスタントに集中してトレーニングをしたかったわけでして。
まあ、とにかくストレスがたまっていたのだと思います。
結果は言うまでもなく予選落ちで、全く仕上がってもいませんでした。
ただでさえ減量がダメダメなのに、そんな短期間で、無謀でしょう。
今となっては黒歴史で、大会に出た事実は残りましたが、完ぺきにノーカンにしています。
仮に今後仕上がっていたとしても、そもそも骨格が向いていませんし、タイプも明らかに向いていないので、今後フィジークに出場することはないと思います。
子供が大きくなるにつれ、少しずつトレーニング再開
それから数年経ち、赤ちゃんだった二人の子供はあっという間に幼稚園児に。
成長早すぎでしょう。
今でも日中のトレーニングは難しいことが多いため、基本的に子供が寝ている明け方にトレーニングを済ませるのが習慣化し、そうすることでようやく問題ないくらいトレーニング時間を確保できるようになりました。
決め手は夜泣きがなくなったことですね。
これからのボディビル。僕は絶対にあきらめない。
足腰の筋量を戻してから…なんてやっていると、あっという間に50歳になってしまいます。
黙っているよりもコンテストに出るほうが得るものが多いと考え、2020年夏の東北大会にてコンテスト復帰をします⇒コロナで出ませんでした
約10年を経て、第二次ボディビルブームの再来です。
諦めないで挑戦を続けることを、自分のためだけではなく子供たちにも見てもらえたらな、と思う次第です。
「もう一つトロフィー貰ってきて!(物理的な意味で)」長男の願いを叶えるべく、10年越しに僕の挑戦は再始動、というわけです。
僕はどこまで行けるのか?
僕はあきらめません。
引退など、ありません。
2022年1月現在、地道なトレーニングの甲斐あってか、今が一番の全盛期を迎えています(脚はまだまだ・・)。
筋トレ大好き少年の挑戦は、おじさんになっても、これからもずっと続くのであります。
生涯マッチョであれ!